2008/05

『輝ける闇』 開高 健(著)

Kagayakeru_yamiある意味変わった小説である。そして同時に、まちがいなく、命をかけた小説である。

これほどに、ものの「におい」がしてくる小説を読んだことがない。熱帯の暑い湿った空気のにおい、石床にころがり、熟れすぎて半分腐りかかったパッション・フルーツのにおい、商店街の人蒸すにおい、疲れきった兵服からただよう汗のにおい、そして戦下の夜につかのまの愛を求める若い女のにおい....。

意図して「におい」を描写しようとしたことは、文中のアメリカ軍の大尉との会話に出てくる。

「もし書くとすれば匂いですね。いろいろな物のまわりにある匂いを書きたい。匂いのなかに本質があるんですから」

「使命は時間がたつと解釈が変わってしまう。だけど匂いは変わりませんよ。汗の匂いは汗の匂いだし、 パパイヤの匂いはパパイヤの匂いだ。あれはあまり匂いませんけどね。匂いは消えないし、変わらない。そういう匂いがある。消えないような匂いを書きたいん です。使命も匂いをたてますからね。」

この思いを、戦場のリアルな現場を伝えたいという、ありきたりな解釈で捉えればどうだろう。それだけなら何ヶ月も戦下のベトナムに滞在しなくても、普通のルポでいいのだし、それに「匂い」でなく「色」や「光」でもいいはずだ。でもそれは「匂い」でなければならなかった。戦場の映像すらリアルタイムに配信できる今日になってみればその理由は明白。おそらく開高はそこまで考えて「匂い」と言ったのだろう。「匂い」こそ、まぎれもなく、「その場所に居なければ体験できない何物か」の象徴であるから。

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開高健は、 1964年、朝日新聞の臨時特派員として戦時下のベトナムへ行った。『輝ける闇』は、『夏の闇』、未完の『花終わる闇』との3部作として、このときの苛烈な従軍体験をもとに書いた作品だ。そこには戦争を通じて考えた、開高の様々な解決せぬ思いが充満して閉じ込められている。

ベトナム戦争に従軍して、すぐに書いたルポルタージュのようなものではない。従軍からしばらくたって、いろんな紆余曲折の後に、突然作家活動に専念した末に生み出された作品だ。それ以前に、ベ平連に関わってみたりしたが、そうした大衆運動の業への幻滅なども、その間あったのではないだろうかと想像している。

作家が書きたいもの、書くべきものは何か? イデオロギーではもとよりあり得ない。では何か? と自分を問うた時に、作家というよりも人間として何に命を燃やして生きたのかを問うたのだと思う。その思いは「小説を書くためにきたのじゃないんです」という、先の、大尉との会話での開高の言葉にも表れている。

イデオロギーの差異などとっくに忘れて、乗り越えて、否、そんな陳腐なもの考えている暇もない、苛烈な現実を体験して描かれた戦争は、左翼的な動機があったとしても、北ベトナムの思想を美化したりも不問に付したりもしない。
「何かがまちがっていたんじゃないのか?」アメリカ軍の大尉は、膠着し沈澱してゆく戦局に悩み考え込む。
南ベトナム兵士は米軍へのコンプレックスを隠さないので、互いの意思疎通がうまくいかない。
では北はどうだったか?
日本に居た一部の反戦な人達が語るベトナムと、開高のそれはあきらかに違う。ホーチミンは確かにきれいな象徴として残されたが、その影でベトコン内部は泥まみれの粛正と弾圧の嵐が吹き荒れる。開高はありのままに戦争を書く。

基地に通う現地の理髪師は北のスパイであるかもしれず、かといって証拠もなく、兵士も市民も、頭の横にいつも鉄の棒をおしつけられているような緊張した毎日。その合間のやさしく悲しいトーガとの生活。潜伏し密かに語りかける南の知識人たち。苛酷な日々にも信念を失わぬ老人。
突然街中で決行されるベトコン協力者の少年への公開処刑。そんなことをしてまで、アメリカと南の支配者がどんなにあがいても、かならず、ここのアジアの人民が最後は勝つのだという、鉛のような重い実感が、理論ではなく「匂い」となって日々を貫く。その時、そんな日々を過ごし、そこに立っていた作者が文を通して目の前に見えてくる。

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最も心動かされた場面がある。光の中で描かれた、激しく美しく悲しい、映画のワンシーンのようだ。記者仲間が懇意にし、仕事を手伝ってもらっていたチャンという青年が居た。彼がある日、南ベトナム軍へと徴兵される。徴兵検査を受ける錬兵場で待機するチャンを、開高は同僚記者の山田氏と見送りに行く。

チャンの眼に激しさがゆれた。
山田氏は一歩さがって頭をさげ、
「いい仕事をしてくれてありがとう」
といった。
私は今朝出がけに下宿の壁からはずしてきた『天官賜福』の紅唐祇をとりだし、漢字の読めないチャンに意味を説明してやった。険しさと激しさが彼の眼から消え た。彼は茫然となり、うろたえたまなざしになった。....ただ貧しくてやせこけた、肩も腰も薄い若者がおろおろして佇んでいた。
「それもお守りさ」
「........」
と つぜんチャンはひしがれたように眼を伏せた。......ぼくは、と彼はいいだした。誤解していた。ぼくはあんた方を誤解していた。あんた方は面白がっているんだと思っていた。外国の新聞記者はみなそうだ。同情するふりをしながらみんなスリルを味わいたくて来るんだ。あんたは薬をくれた。おかげでぼくは熱がひいた。あんたとはいろいろ話し合った。けれどぼくはあんたがいやなものを見たくないばかりにぼくに薬をくれるんだと思っていた。誰も本気で同情してくれたものなんかありゃしない。そんなことをしたら一日もわが国にいられやしない。あなたがたは、ぼくに....。
軍医が戸口にあらわれて名を呼んだ。
チャンは息を吸いこみ、
「ぼくの番です」
とささやいた。
とつぜん私は彼の腕をとり、
「逃げるんだぞ、チャン」
とささやいた。
糸の切れた人形のように彼はうなずいた。
「手紙をくれ」
「書きます」
「いいか。これはもう無駄な戦争になっちまった。ほかのやつはどういうか知らない。おれはそう思う。戦争じゃない。屠殺場だ。死んでも無駄だ。戦闘になったら鉄砲を捨てろ。逃げるんだ。」
「チャン」
とつぜん山田氏が低く声をかけた。
「"チーズ"といえ」
聞こえたのか、聞こえなかったのか。チャンは微笑もせず、ふりむきもせず、蒼白に頬をひきつらせたまま、X線装置が低い唸りをたてている暗い小屋へ入っていった。.....

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僕はジョージ・オーウェルのことばかり書くから、またかと思われるかもしれない。でも開高健とオーウェルの、時を隔てた関わりは深い。実際、角川版 『動物農場』の評論を開高が書いている(「24金の率直--オーウェル瞥見--」)。それによると、けっして小説家としては上手いと思えなかったオーウェ ルの作品を、とりつかれたように読みあさった時期があったそうだ。評論の中にこんなふうな言葉がある。

「理想は追求されねばならず、追求されるだろうが、反対物を排除した瞬間から、着実に、確実に、潮のように避けようなく変質がはじまる。きっかけはホンのちょっとした、眼につかない、小さなこと----この作品でならナポレオンが牛乳をこっそりかくしたこと----そこから変質がはじまる。一歩、一歩、部分が拡大していって全容となる。そしてある日、気がつくと、かつて、"敵"として命を賭けて憎んだものとそっくりの体系がそびえたっている。....」

この言葉を官僚主義化していく共産主義、欺瞞で固められた自由主義、あるいは卑近なところで、頭脳が硬直し腐敗してゆく現実の政党組織や大衆運動にあてはめてみればよい。開高はこれを南北に分裂した当時のベトナムに見に行ったのだ。

しかし地獄の現実は、さらに嶮しかった。一度小説書きを止めて、人間の何かを探しにきたベトナムで、開高はアメリカ軍でもなく、ベトナム人でもなく、彼らの本当を毎日目の当たりにしながら、一人の何もできない異邦人でしかない自分に悩んでいる。
その気持ちは『輝ける闇』の全体から伝わってくる。

そして彼は、ガタガタと震えながら、もう一歩前に進まねば何物も見えないという思いに決着をつけに行く。それを決意した時、開高は脳裏で「カタロニア讃歌」のオーウェルと自分を重ねたのだろうか。

小説家がそこまでしなければならないのかと言う者こそこれを読め。開高は言うだろう。そこまでしなければ見えない何かが確かにあるからだと。

物語のラストへ、ジャングルの草むらから、怒濤のように飛びくる銃弾、見えない敵の潜む最前線へ、彼は向かった。

ベトコンの機銃掃射に直撃されるも、奇跡的に生還。

はじめは200名居た兵士のうち、生き残ったのは開高を含め、たったの17名であった。

この記事へのコメント
私の一番好きな小説の一つです。おっしゃるようにまさに「におい」がする小説ですよね。しかも「匂い」ではない濃密な紊乱腐乱しかけた「臭い」が。それを含めて、生のリアリティが強く感じられる小説だと思います。以下、関連記事をUPしています。

http://trinidad.blog.so-net.ne.jp/2012-08-19

http://trinidad-parallel.blog.so-net.ne.jp/2012-09-02
Posted by sol at 2012年09月04日 00:54
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